Mors certa.
Vanitas vanitatum, et omnia vanitas.
Cerpe diem.
「習得への情熱」で最も印象深かったのは、
「時間/世界」と「自分/認識」は正しく平行しているべきで、不安や怒りに心を囚われて問題に執着していると、これが正しく平行しなくなってしまうという点。
世界に意味や価値は無い。
なんと。
意味や価値という幻想に囚われずに生きていくのに必要なのは、習慣だ。
習慣とは「考えずに行なえること」である。
金が掛からず、健康を損なわない習慣を実践し、考えずに歩めばいいのだ。
よき人生、よき選択。
そんな妄想・雑念を叩き切って、ただただ己の習慣を繰り返すのだ。
死が来ても、何も考えず、ただただ習慣を繰り返すのだ。
そうしてこそ、まっすぐに死へ歩いて行くことが可能となる。
人間の運動は「運動遂行前に予期される結果」と「運動遂行語の実際の結果」
とを常に比較している。
それは運動学習に重要なメカニズムである。
もっと中長期的な行為においても同じことが言えるのかも知れない。
「行動計画/結果目標」と「実際の結果」。
生きることに上達するとは、案外そういうループなのかもしれない。
漢字には学校で習う音読み・訓読みの他に、人名訓という特殊な読み方がある。
人名訓とは「その漢字は普通はそう読まないけど、人名に用いられている時だけはそう読むことがあるよ」という読み方である。
普通「陽」という漢字は、音読みで「ヨウ」、訓読みで「ひ」と読む。
しかし漢字辞典で調べてみると、人名訓には「はる」「あき」「あきら」「おき」「きよ」「きよし」「たか」「なか」「や」といった読み方が挙げられている。
ちなみに具体的な漢字辞典としては
「角川大字源」角川書店(1992)
「新漢和大字典 普及版」 学習研究社(2005)
「岩波 新漢語辞典」第3版 岩波書店(2014)
「全訳漢字海」第4版 三省堂(2017)
等がある。
複数の漢字辞典に載っているということは、つまり複数の漢字の専門家が「陽は人名では"はる"と読むことがありますよ」とお墨付を出しているということである。
具体的に「陽」を「はる」と読む歴史上の人物・人名としては、例えば下記のような例がある。
井伊直陽(いい・なおはる) 江戸時代中期の大名
三島通陽(みしま・みちはる) 1897年生まれの政治家・作家
石川総陽(いしかわ・ふさはる) 江戸時代中期の大名
大関増陽(おおぜき・ますはる) 江戸時代後期の大名
「陽」を「はる」と読むのか?
キラキラネームじゃないのか?
と気にされている方が結構多いようなので、御参考までに。
アライメント修正、おそらく多くの人が感じていることとしては「良い姿勢を身に付ける」ということ。
これは静的に「良い姿勢でジッと立つ」といった練習では身に付かない。
なぜなら良い姿勢を身に付けようとしても身に付けられない理由の大半は、生活の中でそれを維持することが大半だから。
「良い姿勢で立つ」とか「良い姿勢で歩く」とかだけではなくて、「良い姿勢でお茶を飲む」とか「良い姿勢で食器を洗う」とか「良い姿勢でパソコンのキーボードを打つ」とかができないと、結局アライメント修正は達成できない。
そこで重要なのは良い姿勢で動く練習である。